鉄道茶論「千葉の鉄道119年目」の開催

期 日:平成25年7月27日(土)
    15時00分~17時00
場 所::Lounge & cafe Aka-Tomboリカープラザ3階
    千葉市稲毛区稲毛東3丁目16-2(JR稲毛駅前)
参加者:17名
座談会(敬称略)
 鉄道史研究家     白土貞夫
 もと千葉鉄道管理局  金子幸雄
 交通評論家      佐藤信之

概要録


(佐藤信之)
明治27年7月20日に総武線の前身総武鉄道が開業して119年目。120年目は盛大にお祝いがされると思いますが、1年前にひっそりと祝おうということで企画。

総武鉄道開業時の写真について
(白土貞夫)
明治21年7月20日、総武鉄道が市川・佐倉間を開業。市川で止まったのは江戸川の橋梁工事の遅れ。
総武鉄道開業式の写真は、誤り伝えられている。日清戦争が始まってその直後、明治27年9月2日佐倉第二連隊の兵隊が出発するときの写真だと思う。
当時の営業報告書を見ると駅本設は市川だけで、船橋、千葉、佐倉は仮駅舎となっている。そのため佐倉も仮駅舎であって駅が写っていないのではないか。
佐倉駅の写真は転車台の位置がちがうのではという佐藤先生の指摘がありましたが、この写真の出所が不明で調べることができていない。写真の方向からは本来だと赤レンガ造りの機関庫が見当たらず、佐倉駅での写真ではないのではという気がしないではないが、確証は無い。写っている機関車は左側がナスミスウィルソンの国鉄600形Bタンク機関車、右側はBテンダー機関車5500で、総武鉄道の写真には間違いない。



日本最初の鉄道車両製造会社
当時の車両はドアが側面に沢山ついており、そこから出入りするというイギリス式のものが一般的。総武鉄道は違って、現在の車両と同じに真ん中に通路があり、窓際に椅子があるスタイル。明治27年の12月、錦糸町、当時の本所まで開通したときに正岡子規の紀行文があり、それには、「真ん中に通路があって西欧の車両と同じである」と紹介されている。
これは、アメリカに車両製造の修行に行った平岡という人が小石川の一角に工場を作り、客貨車の製造を行い、その後錦糸町に移って、日本の初めての鉄道車両工場としての平岡工場を開く。そこで製造された車両が総武鉄道の車両。平岡工場はその後小名木川に移って、汽車製造会社に合併され、その汽車製造会社も川崎重工に合併された。日本最大の鉄道製造会社のスタートの地が錦糸町であったということを記憶に留めていただきたい。



両国ターミナル
明治37年4月に両国橋まで開通。錦糸町と両国の間は一駅区間ですが、複々線の工事がはじまる前までの赤いレンガの高架橋は日本で最初の鉄道の高架橋。
この両国開通時に、東武鉄道もここを起点とする。業平橋、現在のスカイツリー駅で当時は浅草と言って始発駅にしていたが、両国駅が開通すると同時に亀戸駅から両国駅まで乗り入れをして、東武鉄道も両国駅をターミナルとした。したがって、亀戸線は東武鉄道の本線となった。また、金町から新小岩までの貨物線ができるまでは、房総関係の貨物は、亀戸から東武線経由の北千住で受け渡しがされていた。

京成のカーブ
(佐藤)
京成が船橋で大きくカーブを描き、津田沼、実籾と不規則な形で迂回をしている。船橋から北側を通って直接大和田の方に抜けると、途中軍用地があって、それを避けると現在のルートにならざるを得ないということを入江さんが指摘。
(入江)
特許申請では、船橋から前原新田を通って大和田新田に抜けるというもので、軌道で成田街道が予定地ではなかったか。
京成大久保の北側に陸軍の用地があり、今の習志野駐屯地、さらに新京成高根木戸駅前どおりあたりまで軍用地が広がっていた。そのため、南に振ったのではないかと考えている。
(白土)
軍用地を避けたというのは当たっていると思う。ただそれが大きな理由ではない。京成の社長、本多貞次郎は国鉄との競争心を露わにしていた人で、国鉄に打ち勝とうという競争心を持っていた人。たとえば昭和の初めの京成の沿線案内の地図には、小岩から千葉までの国鉄との並行区間は京成の線路だけで総武本線の線路は描かれていない。

本多貞次郎は、東京市街鉄道の工務課長をやった人で、押上から成田までの特許申請。押上は、現在スカイツリーの下で繁華なところとなっているが、当時は東京市の外延部で市街の外れにあった。東京都心、浅草や上野へは、東京市街鉄道、後の東京市電、都電での乗り入れを考えていた。
したがって、線路の幅は、東京市電と同じ1.372メートルと同じ。
しかし、これには鉄道院から待ったをかけられた。これは京成が開通すれば国鉄にとって非常に強力な競争相手になるとして、乗り入れもさせない、東京市電の中古車両で営業開始するのも認めないという条件で特許を与えたということが、当時の公文書で残っている。待ったをかけられた本多貞次郎としては、国鉄と対抗しようという気持ちが非常に強くなったのではないか。
中古車がダメということで、雨宮製作所から新造の大きな電車を製造し、駅は対抗心から国鉄よりなるべく便利なところに造ろうとした。
中山法華経寺もそうであるし、船橋も北側ルートの特許を変更して現在の位置になる。当時の船橋の繁華街で宿場町であったのが本町通で、ここになるべく近くに造ったということ。
大神宮まで多くのカーブがあるが、なぜこのような線形になってしまったかというと、あそこしか田んぼが無くて、他は市街地になっていた。その田んぼ、空き地を買収したことでこのような線形となった。


千葉も全く同様で、当時の千葉の繁華街は本町通の県庁の近いところで、国鉄千葉駅、現在の東千葉駅は、街のはずれであった。京成は繁華街に近いところということで、千葉中央公園のところに駅を設けました。またそこにいくところが田んぼで残っていたこともあり、用地買収も比較的容易であったということも考えられる。
京成が成田まで開通したときには、現在駅より約300メートル手前に成田花崎町という仮駅を造って開業。門前町の裏側に電車道という道があり、現在でも赤煉瓦のトンネルも二つ残っているが、そこに成宗電気軌道と言って、成田山の門前から国鉄成田駅を経て宗吾までの約6キロの路面電車が走っていた。京成はその電車を昭和2年に買収傘下におさめる。その電車のレール幅も1.372メートルで同じ。京成が線路を繋げば成田山新勝寺の直前まで直通できた。しかしそうすると参詣客が街の中を通らなくなるということで成田の街が大反対をした。やむを得ず大正15年12月24日に成田花崎で開業したが、5年後の昭和5年4月に地元と話がまとまり現在のところに成田駅ができた。

参詣客の誘致
(入江)
本多貞次郎のお母さんは妙見信仰に篤かったと聞いており、そのことから千葉神社に近いところに千葉駅を造ったのではないか。他でも神社仏閣のそばを通っており、参詣客も狙っていたのではないか。
(白土)
開通当時、京成の方が国鉄よりはるかに乗客が多かったということは、京成の作戦が当たったと言える。
お説のとおり、戦前の観光は社寺参詣が主な目的であった。昔は参詣客目当てで鉄道を敷くということも多く、参宮鉄道、現在のJR参宮線などはその典型。琴平には国鉄私鉄で4つの路線があった。
そのように参詣者というのは大事なお客様であり、京成も神社仏閣の近くに駅を造ったのは当然と思う。ただ、造りたかったけれどもできなかったという例もあり、宗吾参道はトンネルのこちらとあちらで駅の誘致運動が生じた。現在の位置に駅が決まったのは昭和3年のこと。
(佐藤)
神社仏閣と旧集落市街が近いということもあり、集落に近いところに線路を敷くと神社仏閣も近くになるということもあったのではないか。
電車による頻度運転に転換
昭和4年の房総東西線(現内房線、現外房線)の開通段階で両国橋の列車は40分間隔で発車。車両はかつて東海道で急行用に使われていた8051が使われていた。
機関車も600型、5500が投入され、昭和4年になると8620、6760などが使われていた。京成など競争相手ができて、近代化、大型化、高速化が進んできた。昭和8年になると船橋駅の時刻表をみると両国から船橋まで直通、船橋から各駅停車。船橋と千葉の間はガソリンカーが走っていた。同年9月15日には船橋まで電化、昭和10年4月1日に船橋から千葉まで電車が伸びる。
昭和15年にはラッシュ時10数本、船橋折り返しも1時間4本あり、通勤輸送としても充実してきていた。
大正10年に京成千葉線という競争相手ができ、大正11年に関東大震災による人口の外延化があって沿線の都市化が進み、昭和になり電化区間が伸びて行って電車の頻度運転という形に転換していった時代。




鉄道忌避伝説
(金子幸雄)
私は昭和33年に国鉄の佐倉駅に入り、その時に、上司になぜこの場所に佐倉駅ができたか質問をした。すると実は計画ではこの場所ではなく今の岩淵薬品の場所であり、しかし佐倉市の街の人の反対で現在の場所に持ってこられたという話を聞いた。
千葉県は、駅を造るときあちこちで反対が起きている。成田線の沿線、総武本線、佐倉から八街方向は各駅で起きていたようで、駅が町はずれにできた。
(佐藤)
鉄道忌避伝説の謎というのを東京学芸大学の青木先生が研究を発表されていて、確かに国鉄の駅は千葉にしても市街地からかなり離れた場所にある。
その後できた房総鉄道の現在の本千葉駅は市街地のすぐ近くにできており、実際に忌避伝説というのはそうだったのか謎ではあると思う。
(白土)
反対ということで市街地の街外れに駅ができた、コースを大きく変えた、そのような話は全国にある。
千葉県内では、行徳、船橋、千葉、佐倉、横芝、飯岡、芝山などがあり、鉄道が敷設されると便利になり、宿場町が寂れるとか、人力車の商売が成り立たない、等で反対をしたようだ。
しかし、実態を調べると反対という言い伝えだけでその記録は無い。船橋の町史では、「船橋の地元は大反対をした。株主の応募は1人だけで誰も応募しなかった」、と出ている。ところが、船橋町議会の議事録では、「船橋の駅の位置は、便利な九日市に設けてほしいと社長に陳情した」旨残っている。
現在の船橋駅は、その陳情したとおりの九日市に出来た。
千葉の場合も現在の富士見橋、京成の駅があったところに駅を造ってほしいと陳情をしている。ということは忌避をして追い払ったわけではない。
なぜ、結局東千葉のところに駅ができたかというと、鉄道の主な目的が銚子への線路延長であり、繁華街では用地買収も難しかった。また、たとえ街はずれに駅を造っても、当時の人は移動には歩くことが最大の方法であり、少しぐらい歩くことはなんとも思っていなかった。というのが真実。
その点佐倉駅は誘致には熱心ではなかった。駅の反対をしたから駅の位置は佐倉町でなく隣の根郷村に出来たと町史にも書かれている。でも根拠は全く無い。明治36年に総武鉄道の建造案内という総武鉄道の社員の方が書いた本が出ているが、それによると佐倉は街が高台にあるので、「やむを得ず会社の都合で駅を田んぼの中に造った」と書いてある。
30メートルの高台に駅を造るとなると物井あたりから築堤をして登って行かなくてはならず、資金的にも無理があり、それと銚子に伸ばすという主目的からも現在の位置がいちばん良い方法ではなかったのかと思われる。
鉄道の反対運動があったと全国で言われていますが、公式に記録残っていますのは三重県の参宮線の宿場町で参詣客が少なくなるので反対というのがひとつだけ。
大勢から言えば反対する人は少なく、鉄道頭の井上勝がその陳情を却下して参宮線を松坂の駅に通した。反対運動は無かったとは言えないけれど、千葉県で鉄道ができたのは明治27年で、初めに敷かれた明治5年から25年が経っており、千葉の人も東京に行って乗り、鉄道の良さを多くの人が経験していると考える。よって当時鉄道は反対したという忌避伝説はもう少し考えてみる必要がある。
(入江)
明治25年には鉄道敷設法ができ、法律で定まっていますから単に反対ということでなく、川を避ける、勾配を避ける等合理的な路線配置と用地買収のしやすいことで決定されていったのではないか。
(湯浅)
物井から佐倉まで複々線になる前大きく迂回していたがどうしてか
(白土)
当時から直線化のトンネル案が検討されていた。だがトンネルを掘るということが技術もなく資金もない、それよりも北にまがった方が早くできるということで作られた。

国鉄に入って
(金子)
昭和33年佐倉駅に入りましたが、本当は機関手になりたく佐倉機関区に入りたかった。
恐ろしい先輩ばかりで何をやるにも全部命令調であった。駅手になって、ホーム、跨線橋、便所、たんつぼの清掃、風呂焚きや小荷物や新聞輸送を下して成田線に積み替える作業をしていた。徹夜勤務で夜は4時間しか寝ることができなかったが、鉄道そのものが好きだったので、勤まった。2年後には両国の花火が行われていた浅草橋に転勤。


浅草橋には、事業便のトラックが入ってこないので、朝一番で起きて両国橋を渡って両国まで荷物を届け、帰りは一番電車で帰ってきたということもある。
鉄道は怖かったが、夢のある良い場所でもあった。

(佐藤)
金子さんは名物広報室長で、当時労働運動があって苦労されたのでは。
(金子)
言葉に出して言えないことがいっぱいある。
長期ストライキをたくさんやっており、11日間管理局に泊まりっぱなしで駅弁とラーメンで凌いでいたこともある。
津田沼事件があり、翌日は浅草橋駅が焼打ちにあった。
津田沼事件は、中核と核マルとの戦争で、津田沼電車区の構内で衝突した時、その真ん中にいた。両方から石の投げ合いがはじまり、当時は千葉県警と日本全国から公安部隊が配置で来ており、千葉鉄道管理局の20名ほどの職員が衝突を防ぐために真ん中に立ちはだかった。石が投げられて一人二人と逃げだし、10人程になって残っていると、核マルの副委員長が「あぶないぞ、ぶつかるから早く逃げろ」とささやいてくれた。それを機に皆で逃げろと逃げた途端、ヘルメットで竹やりを持って衝突。見るも悲惨なすごい事件で、震えを覚えました。
管理局の上層部の人の家も焼打ちにあうことがあり、私の自宅も襲われた。社宅に同じ金子という中核派の人が居て、その人の家と間違えて私の不在の時に15人くらいで家に押しかけ、ドアをたたき開けろと叫んだようですが、女房が人違いということで話をしたら帰ってくれたそうで、そのような怖い経験もした。
(白土)
当時私も三公社五現業のうちの郵政におり、当時ホームで電車を待つのに絶対一番前には行きませんでした。

千葉の鉄道の黄金時期
(佐藤)
国鉄は赤字になり急速に経営が悪くなっていきますが、千葉では昭和43年3月に千葉・成田間の電化、佐倉の線路付け替え、同年7月には千葉・木更津間の電化、翌年には千葉・千倉間が電化した。昭和45年には鹿島線が営業開始、昭和46年7月に千倉・安房鴨川間の電化により房総西線が電化完成。昭和47年7月に総武快速東京地下駅が開通。同時に外房線蘇我・安房鴨川間が電化して千葉に特急電車が走ります。
千葉は東京に近く、経営近代化のテストケースになることが多かった。昭和30年代のディーゼル化、昭和38年の千葉駅の移転、40年代の電化がそれにあたる。
この時代修学旅行等で団体が入ってくる、海水浴も盛んで千葉の鉄道の黄金時代でもあった。


(久多羅木)
昭和46年に営団に入団、現場実習の後、新線建設担当になり、津田沼まで入るのを楽しみにしていた。当時のキャッチフレーズは「日本橋まで20分」というもので快速運転がはじまった。しかし夏季輸送の時は直通乗り入れが打ち切られ、国鉄は混雑していた。
鉄道の建設に次ぐ建設が続いた時代。しかし、都心であっても建設に反対する人もありまして、麻布では日比谷線建設時に大反対を受けて、今の広尾回りになった。ところが日比谷線が開通してみると、広尾が急に開けて便利になり、麻布の人は最近まで不便な地域になった。その後地元に行くと、あれは先代が反対したことで、麻布にぜひ通してくれと言われ12号線と7号線の工事の時にはたいへん協力的であった。


(佐藤)
昭和40年代は、日々新しい路線ができ、日々新しい電車が走り、鉄道にとっては良い時代、希望のある時代と言える。
昭和50年代は、山陽新幹線が博多まで開通する、成田開港、上越、東北新幹線が開通と大きな話題が続く。


(大熊)
 千葉局管内と言えば、気動車が大好きになるきっかけをいただいたところで、忘れられない思い出が一杯。
 家族に連れられての外房御宿への旅行に、両国駅地平ホームから房総西線先回りの〈内房〉(房総東線に入る安房鴨川から列車名が〈外房〉に変わる)への乗車をせがんで、親たちにあきれられたこと。
 そのときの旅行で、キハ16、キハ17、キハ18、キハ25、キハ30、キハ35、キハ35-900番代ステンレス車、キハ36、キハ45、キハ26、キハ28、キハ55…といった、色とりどり、片運、両運、運転台なし、の楽しい編成の普通列車、系列が違っても編成すべてが幌でつながり総括制御のできる気動車に、すっかり魅せられてしまったこと。
 小学校5年生のときの岩井での臨海学校ではC57の牽く臨客に乗車。夏ダイヤに各地から集まった気動車、客車、機関車に、ちっとも飽きなかったこと。埋め立て前の海岸を行く蘇我あたりの線路端には、海苔が干してあり、幕張-津田沼間あたりの高台の車窓から、松の疎林越しに、海も眺められた。
 夏ダイヤの列車の中には、キハ17等の一般型気動車だけの準急もあれば、正式配置先に着任前の早期落成キハ58-1500番代のバリバリの新車でそろった編成もあり、ヘッドマーク、テールマーク付きの客車列車もあり、非電化区間をクハ16にバッテリーを積んだ簡易電源車とともにDD13の重連が牽く80系電車、153系電車の海水浴臨まであって、多士済々。
 足繁く通った千葉気動車区は、準急形最初期の、正面小窓、側面バス窓、カーブした連結面、屋根上にむき出しタイフォンのキハ554(このときすでに、千葉区に配置のあったキハ551はなく、キハ554は北総電化時に、はるか、志布志機関区(鹿シシ)か都城機関区(鹿ヤコ)かに転属)、DMH17機関に装換後のキハ601、キハ602、キハ60101(北総電化時には久留里線用として木更津(千キサ)に転属)などが印象的。
 総武本線を直通する〈犬吠〉、成田線小見川、佐原まわりの〈水郷〉、鹿島線ができて鹿島神宮発着の〈水郷〉も併結した、北総DC急行。
 内房は青、外房は赤、総武は黄色、成田は緑と、どれも、線区によって統一された色使いのヘッドマーク、サボを掲げて、大事にされ、また、精いっぱい利用者を大事にした列車たち。
 C57、C58、8620、気動車王国の中にあって、SLが有終の美を飾った佐倉機関区。
 東北本線仙台七夕臨〈まつしま〉で出会った、佐倉客貨車区(千サク)の操配用客車で、天然の風を満喫。
 同区にいた、巻き上げ式シャッターの並んだ1形式1両の試作荷物車カニ381を改造した、スエ388。
 気動車と、C57からDE10にバトンタッチされた上野直通を含む客車の活躍から、短尺レールを踏んで103系電車が走るようになった、成田線我孫子-成田間。
 電化の進展で、165系に混じって、各地からやって来た、153系や、クモハ73、モハ72、クハ79、サハ78。
 成田山ご開帳輸送の70系快速〈成田号〉。クモハ74改めクモハユ74を併結した、カナリア色の101系の遠征等々、電車の活躍。
 まだまだ、いろいろ思いつき、キリが無く、気動車急行を乗りつぶし、はては、全国の気動車を追いかけて国鉄完乗へと続いた、鉄道趣味の原点は、千葉鉄道管理局管内の魅力だったのではないかと思っている。
(児玉)
私が在籍していた富士急行では58系の国鉄型車両を3両持っており、当時急行アルプスに繋いでもらって新宿に乗り入れていたのを思い出す。この車両はつい最近まで有田鉄道で無事にいると聞いている。


今日はお集まりいただきありがとうございました。時間となりましたので白土さん、金子さんにもう一度拍手をお願いします。

会場

ポスター

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